原典:米山正信『有機電子論解説 — 有機化学の基礎』第14章(p.197〜212)INDEX | ← 前へ 13_脂肪族の転位反応 | 次へ → 15_ペリ環状反応
覚える前にこれだけ:HMO法は「π電子だけを手計算で扱える最小モデル」。数式は怖くない。αとβという2つの記号を使いこなせば、エチレンからブタジエン、ベンゼンまで同じ枠組みで語れる。
01_水素原子と炭素原子で「電子は軌道に住む」と学んだ。02_共有結合〜03_多重結合と分極では「原子どうしが軌道を重ねると分子軌道(MO)ができる」と学んだ。しかしそこでは「結合性MO・反結合性MOの2つができる」程度の説明だった。
本章は「その計算を具体的に追う」章だ。
これが分かると、次章(15_ペリ環状反応)のウッドワード−ホフマン則が「HOMOとLUMOの形を見るだけで反応が予測できる」ことの根拠を理解できる。「銃を取れ、戦うのだ」という著者の言葉通り、鉛筆を持って読み進めてほしい。
原子軌道(AO)を φ で表す。φ は電子の存在状態を記述する波動関数であり、空間の微小体積 dτ に電子が見つかる確率は φ²dτ で与えられる。全空間で積分すれば確率は1になる:
∫φ²dτ = 1 ...(1)
物理的に意味を持つのは φ そのものよりも φ²(電子密度)である。
原子AとBがそれぞれ1個の電子を持ち、AOが φ_A、φ_B であるとする。2つのAOが混合して分子軌道(MO)Ψ を作るとき、LCAO(AOの線形一次結合) を使う:
Ψ = c_A φ_A + c_B φ_B ...(2)
c_A、c_B は 係数(coefficient)。後述するが c_A²、c_B² はそのMOにおいて原子AまたはBに電子が「どの割合で存在するか」を示す。

💡 「線形結合」とは単純に「各AOにある係数をかけて足し合わせる」操作。複雑な分子でも原理は同じだ。係数が「ゼロでない」軌道の数だけMOの形の「個性」が決まる。
MOのエネルギー E を求めるにはシュレーディンガー方程式を使う:
HΨ = EΨ ...(3)
両辺にΨをかけて全空間で積分すると:
E = ∫ΨHΨdτ / ∫Ψ²dτ ...(6)
ここに式(2)の LCAO を代入して E を c_A, c_B で表す。
計算で何度も出てくる積分を略字で表す:
| 記号 | 式 | 意味 |
|---|---|---|
| α(クーロン積分) | ∫φ_AHφ_Adτ = H_AA | 原子Aの2p軌道に電子1個がいるときのエネルギー |
| β(共鳴積分) | ∫φ_AHφ_Bdτ = H_AB | AとBの軌道が重なることで生じる安定化エネルギー |
| S(重なり積分) | ∫φ_Aφ_Bdτ = S_AB | 2つのAOが空間的にどれだけ重なっているか |
SHMO(単純ヒュッケル法)での近似:
🔑 なぜSを0とおけるか厳密には正しくないが、この近似で「多くの定性的予測が正しく出る」ことが実証されている。理論の美しさより実用性を優先した割り切りだ。SHMO の "simple" の所以。
エチレンは2つの炭素A, Bの2p軌道が混合したπ系。SHMO の規則(S_AB = 0、H_13 = 0 等)を入れると連立方程式は:
c_A(α − E) + c_B β = 0 ...(20)
c_A β + c_B(α − E) = 0 ...(21)
c_A, c_B が同時にゼロでないためには永年行列式がゼロ:
|α−E β |
|β α−E | = 0
展開すると (α−E)² − β² = 0 → E の2つの解:
E₁ = α + β (結合性MO、安定)
E₂ = α − β (反結合性MO、不安定)
α も β も負の値(安定化)なので、α + β の方がより安定(エネルギーが低い)。

式(20)(21)と規格化条件 c_A² + c_B² = 1 を使うと:
結合性 MO: Ψ₁ = (1/√2)φ_A + (1/√2)φ_B ...(24)
反結合性 MO: Ψ₂ = (1/√2)φ_A − (1/√2)φ_B ...(25)
「+と+が同位相で重なる」のが結合性、「+と−が逆位相で押し合う」のが反結合性。
電子密度(electron density) = c² で定義する。
エチレンのΨ₁に2個の電子が入っている(基底状態):
これはエチレンのπ電子2個が2炭素に均等に分布していることを示している。

💡 位相(+と−)の意味波動関数そのものは正と負の値を持つ。2つのAOが同じ位相で重なると結合性MO、逆位相で重なると反結合性MOができる。これはラジオの電波の「強め合い(同位相)」「弱め合い(逆位相)」と同じだ。
ブタジエンには炭素が4個(C₁〜C₄)あり、π電子も4個。LCAOは:
Ψ = c₁φ₁ + c₂φ₂ + c₃φ₃ + c₄φ₄ ...(26)
SHMO規則(H₁₁=H₂₂=H₃₃=H₄₄=α、H₁₂=H₂₃=H₃₄=β、それ以外=0)を適用した永年行列式:
|α−E β 0 0 |
|β α−E β 0 |
|0 β α−E β | = 0 ...(30)
|0 0 β α−E|
4次式を展開すると4つの解が得られる:
E₁ = α + 1.618β (最安定)
E₂ = α + 0.618β
E₃ = α − 0.618β
E₄ = α − 1.618β (最不安定)
4個のπ電子はΨ₁, Ψ₂(結合性)に2個ずつ収まる。各MOの係数:
Ψ₁ = 0.3717φ₁ + 0.6015φ₂ + 0.6015φ₃ + 0.3717φ₄
Ψ₂ = 0.6015φ₁ + 0.3717φ₂ − 0.3717φ₃ − 0.6015φ₄ ← HOMO
Ψ₃ = 0.6015φ₁ − 0.3717φ₂ − 0.3717φ₃ + 0.6015φ₄ ← LUMO
Ψ₄ = 0.3717φ₁ − 0.6015φ₂ + 0.6015φ₃ − 0.3717φ₄
係数の符号(+ / −)が位相を表し、符号が変わる場所が節(ノード)。Ψ₁は節なし、Ψ₂は節1個、Ψ₃は節2個、Ψ₄は節3個となる。

🔑 節の数のパターン安定なMOほど節が少ない。これはすべてのπ系に共通する法則で、15_ペリ環状反応のウッドワード−ホフマン則を適用する際に「何番目のMOを見るか」を判断する手がかりになる。
ブタジエンではΨ₂がHOMO、Ψ₃がLUMO。
教科書の図14・6は、炭素1〜7個からなるすべての鎖状π系についてHOMO・LUMOの係数と位相(S:対称 / A:反対称)をまとめた非常に重要な図。

化合物の反応しやすい場所は、HOMOまたはLUMOの係数 c が最大の炭素原子である。
1952年に福井謙一教授が提唱した原則。例外は一例もなかった。後に「HOMOとLUMOのS/A対称性が反応の立体化学まで規制する」(ウッドワード−ホフマン則、1965年)へ発展し、1981年にフロンティア軌道論としてノーベル賞を受賞。
🔑 なぜHOMOとLUMOか求核側(電子を出す)の最高軌道 HOMO と、求電子側(電子を受ける)の最低空軌道 LUMO が一番エネルギーが近い。相互作用は軌道エネルギーの差が小さいほど強い(摂動論の基本)。だから反応性はフロンティア軌道で決まる。

5個の炭素からなるペンタジエニル系は、π電子数によって異なるHOMOを持つ:
| 種 | π電子数 | HOMO | LUMO |
|---|---|---|---|
| カチオン(+) | 4 | Ψ₂(α + 1.00β) | Ψ₃ |
| ラジカル(·) | 5 | Ψ₃(半充填) | Ψ₄ |
| アニオン(−) | 6 | Ψ₃ | Ψ₄ |
ラジカルのHOMOはΨ₃で、係数は C₁ = 0.577、C₂ = 0、C₃ = −0.577、C₄ = 0、C₅ = 0.577。中心(C₂, C₄)の係数がゼロなのは、Ψ₃が節をもつためだ。

💡 π電子数が変わってもMOのエネルギー固有値は同じMOは分子の「部屋割り」。電子数が変わっても部屋の形は変わらない。変わるのは「どの部屋まで電子が入っているか(HOMO位置)」だけ。
MO理論から結合次数 p_rs(原子r−s間のπ結合の強さ)を定義できる:
p_rs = Σ nⱼ cⱼr cⱼs
(n_j = MO j に入っている電子数、c_jr, c_js = それぞれの原子の係数)
エチレン(Ψ₁に2個):p_AB = 2 × (1/√2)(1/√2) = 1.000。完全な1本のπ結合。
ブタジエンのΨ₁, Ψ₂から:
これは「ブタジエンはC₂−C₃が単結合に近い」という化学的直観と一致する。
ブタジエンのπ電子エネルギー:
2E₁ + 2E₂ = 2(α + 1.618β) + 2(α + 0.618β) = 4α + 4.472β
独立した2本のエチレン(= 2 × 2(α + β) = 4α + 4β)と比べると:
4.472β − 4β = 0.472β だけ余分に安定化している(β は負値なので安定化)。
これが非局在化エネルギー(共役安定化エネルギー)で、ブタジエンが単純な2つの二重結合より安定な理由だ。


A. 教科書では α ≈ −7 eV、β ≈ −3 eV を目安として示している。ただし状況(原子の種類、隣接環境)によって変わる。HMO 法では数値より符号と大小関係が重要。
A. 厳密には正しくない。しかし定性的な予測(どの位置が反応しやすいか、MO の節の数など)を驚くほど正確に再現する。「近似だが使える」のが SHMO の実力。
A. c² はそのMOにおいてその原子に電子が存在する確率(電子密度)。c が大きい原子が「そのMOに最も多く電子を持っている」場所。HOMO の c が大きい場所 = 求電子攻撃を受けやすい場所(福井理論)。
A. frontier = 最前線。反応に参加するのは「一番外側の、エネルギーが近い軌道」。HOMO が一番高く電子を出しやすく、LUMO が一番低く電子を受け取りやすい。まさに「反応の最前線にある軌道」。
A. LCAO 法で n 個の AO を混合すると連立方程式(永年行列式)が n 次式になり、n 個の解(固有値 E)が出る。それぞれの E に対応して 1 個の MO が決まるので、MO の数 = AO の数。
A. その通り! 4 個の炭素系の場合、永年行列式を解くと係数に黄金比 (1+√5)/2 ≈ 1.618 が現れる。自然の数学的美しさの一例だ。
AO (φ_A, φ_B, ...)
↓ LCAO: Ψ = Σ cᵢ φᵢ
MO (Ψ₁, Ψ₂, ...)
↓ シュレーディンガー方程式 → 永年行列式
エネルギー固有値 E (= α ± Aβ)
↓ E の低い順に電子を詰める
結合性MO: 電子2個ずつ (HOMO まで)
反結合性MO: 空 (LUMO から上)
SHMO の近似
α = C の 2p 電子エネルギー (≈ −7 eV)
β = 隣り合うC−C の相互作用 (≈ −3 eV)
S = 0 (異原子間の重なり積分を無視)
フロンティア軌道論(福井, 1952)
HOMO の c が最大 → 求電子反応の起こる場所
LUMO の c が最大 → 求核反応の起こる場所
→次章 W.-H. 則の基礎に
この章のキーワード:LCAO / 波動関数(φ, Ψ) / ハミルトニアン / シュレーディンガー方程式 / クーロン積分(α) / 共鳴積分(β) / 重なり積分(S) / SHMO / 永年行列式 / 電子密度(c²) / 結合次数 / 非局在化エネルギー / HOMO / LUMO / フロンティア軌道
🎯 次のノートを読む前に図14・6(C₁〜C₇のMO一覧)をノートに写し、ブタジエン(4π系)のHOMOとLUMOの位相(+/−)を確認せよ。これが頭に入っていないと15_ペリ環状反応のどの反応例も追えない。
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