原典:米山正信『有機電子論解説 — 有機化学の基礎』第1章(p.1〜13)INDEX | ← 前へ(なし) | 次へ → 02_共有結合(未作成)
覚える前にこれだけ:有機化学はずっと「電子がどこにいて、どこに動くか」の話を続ける。その前提として「電子はどこに住めるのか」を決めるのがこの章。
有機化学のすべての反応は、結局のところ 電子の移動 で説明される。矢印(curved arrow)が指す先は電子ペアの行き先だ。
ところが「電子はどこにいる?」という問いに、電子は核のまわりを丸い軌跡でぐるぐる回っているという小学校〜中学校の絵では太刀打ちできない。実際の電子は 雲のように広がって存在 していて、「住める場所(軌道)」と「住めない場所」がエネルギーで決まっている。
つまり1章は「これから2000ページぶん語るための地図」を配る章だ。
教科書もまずボーア模型から入る。「核のまわりを電子が円軌道で回っている」という1913年の絵だ。直径は 約100 pm(ピコメートル = 10⁻¹² m)。これは押さえておきたい数字:
🔑 原子の大きさは、おおむね100 pm前後。これだけ覚えていれば原子のスケール感は持てる。

電子が「粒として軌道上を回っている」なら、原則として 居場所を特定できる はずだ。しかし測ってみると、電子は速すぎて瞬間の位置がつかめない。さらに1925年、de Broglie が「電子は波でもある」と提唱した(菊池正士の電子線回折実験で実証)。
ここで考え方が 粒子モデル → 確率モデル に切り替わる。
今の理解はこうだ:

中心から距離 *r* の薄い殻に電子がいる確率を描くと、山のような曲線になる。山のピークが 電子がもっとも多くいる距離 = 平衡距離 r₀。
💡 なぜ「雲」のイメージが大事か後で出てくる「軌道の重なり(結合)」「軌道の節(p軌道)」「混成」など、すべて 雲の形と広がり で語られる。ここで雲のイメージを定着させておくと、14_分子軌道法HMO(MO法)の頃にようやく報われる。
| 量 | 値 |
|---|---|
| 単位電荷 *e* | 1.6022 × 10⁻¹⁹ C |
| 電子の静止質量 *mₑ* | 9.1094 × 10⁻³¹ kg |
| 陽子の静止質量 *m_p* | 1.6726 × 10⁻²⁷ kg |
| 陽子と電子の質量比 | 約 1836倍 |
| 水素のボーア半径 r₀ | 53 pm |
数字は覚えなくていい。覚えるのは「核は電子の約2000倍重い」という事実だけ。これが後で「分子の運動を語るとき、核の位置は固定して考えていい」(Born–Oppenheimer近似)の根拠になる。
軌道(orbital)= ある決まったエネルギーをとる電子の存在状態 のこと。昔の「軌跡(trajectory)」とは意味が違う。形と広がり方を指定した雲のパターンだと思えばいい。
パウリの原理① 1つの原子の中で、完全に同じ状態の電子は1個しか存在しえない② 1つの軌道には、スピンが逆向きの2個の電子まで入れる
電子には「スピン」という性質があり、↑ と ↓ の2状態をとる。1つの軌道に ↑ と ↓ が1個ずつ 入れば、パウリの原理を破らずに2人で同居できる。
🏠 アパートの比喩軌道は1Kの部屋。家賃(エネルギー)が安い順に下から埋まる。ただし「スピンが逆の2人組」しか同じ部屋には住めない。
軌道のエネルギーは 主量子数 n(= 1, 2, 3, …) で大きく分けられる。n が同じ軌道をまとめて 電子殻(shell) と呼ぶ。
| 主量子数 n | 殻 | 含まれる軌道 |
|---|---|---|
| 1 | K殻 | 1s |
| 2 | L殻 | 2s, 2pₓ, 2p_y, 2p_z |
| 3 | M殻 | 3s, 3p, 3d |
| 4 | N殻 | 4s, 4p, 4d, 4f |
1と2のあいだは不連続。電子が1sから2sに昇格するには、決まった量のエネルギーを階段で1段あがる必要がある。間(n = 1.5)は存在しない。

2s軌道は「ボール in ボール」のような 二重構造(節がある)になっている。今は「2sも結局丸い」と覚えれば十分。

🔑 s と p の違いがあとでなぜ効くか・s軌道は方向性なし → どこにでも結合を伸ばせる・p軌道は方向性あり → 結合の方向と分子の形(109.5°, 120°, 180°)を決める次章で「混成軌道(sp³, sp², sp)」が出てきたら、ここを思い出すと一発で腑に落ちる。
同じエネルギー準位の軌道(縮退軌道)には、電子はできるだけ分散して入る。
これは正式には フントの規則 と呼ばれる。炭素の電子配置で 2p² の2個を 2pₓ¹2p_y¹ と分けて書くのはこのため(4個ペアでなく1個ずつ)。

埋まる順序:1s < 2s < 2p < 3s < 3p < 4s < 3d < 4p < …
⚠️ 3p の次は 3d ではなく 4s。これは「電子のひっくり返り」と呼ばれる現象だが、有機化学の最初では 4sが3dより先に埋まる とだけ覚えればよい。
エネルギーの絶対値は元素ごとに違う。水素の 1s は約 −13.6 eV だが、ネオンの 1s はもっと深い(核電荷が大きく電子を強く引きつける)。
📐 1 eV = 96.485 kJ/mol水素の 1s エネルギーは 13.6 eV ≒ 1312 kJ/mol。ネオンの 1s はざっと70倍深い ≒ 約 94,800 kJ/mol。だから 閉殻電子は反応に出てこない — 取り出すのに途方もないエネルギーが要る。
教科書の流れを 電子配置の表 にまとめる。
| Z | 元素 | 電子配置 | 価電子数 | コメント |
|---|---|---|---|---|
| 1 | H | 1s¹ | 1 | 最も単純 |
| 2 | He | 1s² | 0 | K殻 閉殻 → 不活性 |
| 3 | Li | 1s² 2s¹ | 1 | 1価のアルカリ |
| 4 | Be | 1s² 2s² | 2 | |
| 5 | B | 1s² 2s² 2p¹ | 3 | 3価(ホウ素) |
| 6 | C | 1s² 2s² 2pₓ¹ 2p_y¹ | 4 | 有機化学の主役 |
| 7 | N | 1s² 2s² 2p³ | 5 | 3個のp軌道に1個ずつ |
| 8 | O | 1s² 2s² 2p⁴ | 6 | 1組のp電子対 + 2個の不対 |
| 9 | F | 1s² 2s² 2p⁵ | 7 | 不対1個 → 1価 |
| 10 | Ne | 1s² 2s² 2p⁶ | 0 | L殻 閉殻 → 不活性 |
| 11 | Na | [Ne] 3s¹ | 1 | M殻にやっと1個 |

たとえばリチウムは電子が3個だが、内側の 1s² は 核と一緒に固まった塊 とみなしていい。すると Li は「+1の有効核 と 2s に1個の電子」というシンプルな絵で扱える。
有効核電荷(effective nucleus charge):内側の閉殻電子で遮蔽された結果、価電子から見える「みかけの核電荷」。
Liなら +1e、Beなら +2e、Bなら +3e、Cなら +4e。
これが化学者の便宜的な省略。化学反応は価電子と有効核だけ見ればいい — このシンプル化が大事。
炭素は 1s² 2s² 2p²。2p² の2個は、フントの規則に従って 2pₓ¹ 2p_y¹ に1個ずつ入る(2p_z は空)。
ここで価電子は 4個(2s² 2pₓ¹ 2p_y¹)。この「2s² 2p²の4個」が、次章で sp³ 混成して4本の手をつくる元になる。
💡 なぜ炭素が有機化学の主役か・価電子4個 → 結合の手が4本(=四面体)・周期表のちょうど真ん中 → 電子を奪うのも与えるのも中途半端→ だから他の元素となめらかに結合できる・1段下のSiは大きすぎて結合が弱い、上のHは1本しか手がない結果として、「複雑な骨格をつくれる唯一の元素」になった。
He(1s²)も Ne(1s² 2s² 2p⁶)も Ar(… 3p⁶)もほぼ反応しない。これを 閉殻(closed shell) という。
理由は2つ:
🔑 逆に言うと反応性が高いのは「閉殻に近いが完成していない」原子。・F:あと1個もらえば Ne 配置 → 強い電子受容性・Na:1個失えば Ne 配置 → 強い電子供与性周期表の左右両端は反応性が高い理由がこれ。

C > N > O > F の順に小さくなる。理由:同じ周期では、右にいくほど核電荷が増え、価電子をより強く引きつける。
📏 頭に入れておきたい感覚・H 原子 ≈ 100 pm・C–H 結合長 ≈ 109 pm(だいたい原子半径と同じオーダー)・分子全体でも nm(ナノメートル)の世界
A. 個数は1個。いる場所が確率分布になっているだけ。測定すれば必ず1点で見つかるが、測定前の状態は確率の雲で記述する。
A. p軌道は 2つの球が向き合った形 で、本質的に 方向 を持つ。3次元空間には x, y, z の3方向があるので、自然にp軌道も3種類になる。
A. エネルギーが同じ複数の軌道のこと(degenerate)。p軌道は3つ、d軌道は5つ縮退している。
A. 軌道のエネルギーは「単純な n の順」では決まらない。3d は 3s, 3p より外側に大きく広がるため、ふしぎなことに 4s より高エネルギーになる。有機化学ではあまり登場しない(遷移金属化学で重要)。
A. 電子のスピンが ↑ と ↓ の2種類しかないから。3種類目があれば3個入れるが、自然界はそう設計されていない。
A. その通り、近似だ。Slaterの規則などで定量化はできるが、有機化学では「閉殻はまとめて1つの固いボール」と思えば十分。
原子 = 核(陽子+中性子) + 電子雲
↓ 電子は「軌道」という決まった部屋に住む
軌道のルール
・主量子数 n: 1, 2, 3, ... = K, L, M, N 殻
・形: s(球) / p(鉄アレイ) / d / f
・パウリの原理: 1軌道に↑↓の2個まで
・フントの規則: 縮退軌道は1個ずつ分散して入る
↓
電子配置(埋まる順序)
1s < 2s < 2p < 3s < 3p < 4s < 3d < 4p < ...
↓
価電子 = 最外殻の電子だけが反応に関わる
・C: 2s² 2p² → 4個 → 結合の手 4本
・N: 2s² 2p³ → 5個
・O: 2s² 2p⁴ → 6個
・F: 2s² 2p⁵ → 7個
・閉殻(He, Ne, Ar) → 反応しない
この章のキーワード:原子軌道(AO) / 主量子数 / 電子殻(K, L, M) / s軌道 / p軌道 / パウリの原理 / フントの規則 / 縮退 / 価電子 / 閉殻 / 有効核電荷
🎯 次のノートを読む前に炭素の電子配置 1s² 2s² 2pₓ¹ 2p_y¹ を、何も見ずに箱の絵で描けるかチェック。これができれば、次章の sp³ 混成は「2sと3つのpを混ぜ直すだけ」と直感的に飲み込める。
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