試薬1) Hg(OAc)₂(酢酸水銀(II)) (水銀源、求電子剤)2) NaBH₄(水素化ホウ素ナトリウム) (還元剤、脱水銀用)
溶媒・条件Et₂O–H₂O(ジエチルエーテル-水)/ rtaq NaOH(NaBH₄ の溶媒)OAc = アセトキシ基(CH₃COO–)
後処理NaBH₄ で脱水銀(Hg → Hg⁰ + H)
この反応の最初の段階で注目すべきは、アルケン(C=C二重結合)のπ電子と、試薬である酢酸水銀(II)(Hg(OAc)₂)中の水銀イオン(Hg²⁺)です。また、溶媒として存在する水(H₂O)も重要な役割を担います。
アルケンのπ電子は電子豊富であり、強い求電子剤である水銀イオン(Hg²⁺)に引き寄せられます。Hg²⁺はアルケンの両方の炭素に同時に結合し、メルクリニウムイオンという三員環中間体を形成します。このメルクリニウムイオンは非対称で、より多くのアルキル基(電子供与性基)で置換された炭素原子の方が、部分的な正電荷(δ+)が大きくなります。これはアルキル基の超共役効果により部分カチオン性が安定化されるためです。次に、求核剤である水の酸素原子の孤立電子対が、このδ+が大きい(より置換された)炭素原子を優先的に攻撃します。この位置選択性はマルコフニコフ則に従うものです。続く脱水銀化の段階では、水素化ホウ素ナトリウム(NaBH₄)から供給されるヒドリドイオン(H⁻)が、水銀原子に選択的に作用します。これは、Hgが軟らかいルイス酸であり、H⁻が軟らかいルイス塩基であるため、HSAB則(硬い・軟らかい酸塩基の原理)により高い親和性を示すためです。
この反応の初期段階における律速段階、または重要な鍵となる結合形成は、アルケンのπ電子が水銀イオンに配位して三員環のメルクリニウムイオンを形成すること、および水がこのメルクリニウムイオンのより置換された炭素原子を攻撃し、新たな炭素-酸素結合を形成することです。これにより、カルボカチオン転位が起こりにくい中間体を経由し、特定の生成物を得ることが可能になります。脱水銀化の段階では、C-Hg結合のホモリシス(均等開裂、結合の2つの電子が1つずつ各原子に分配される切断)による炭素ラジカルの生成が、反応の進行における鍵となります。
[出典: 8章 p9]
反応は大きく分けて二つの段階で進行します。
**第一段階:オキシ水銀化**
1. アルケン(C=C二重結合)のπ電子が、酢酸水銀(II)の水銀イオン(Hg²⁺)を攻撃し、一つの酢酸アニオン(OAc⁻)が脱離します。
2. 水銀イオンはアルケンの両炭素に結合し、三員環のメルクリニウムイオンを形成します。
3. 水(H₂O)の酸素原子の孤立電子対が、このメルクリニウムイオンの、より置換された炭素原子(マルコフニコフ位)を、水銀の反対側から攻撃し、新たな炭素-酸素結合を形成します。同時に、攻撃された炭素と水銀の結合が切れ、水銀はもう一方の炭素側に結合したままとなります。
4. 酸素原子にプロトン(H⁺)が付加したオキソニウムイオンから、溶媒の水分子または脱離した酢酸アニオンがプロトンを引き抜き、アルコール性ヒドロキシル基と炭素-水銀結合を持つ中間体が得られます。
**第二段階:脱水銀化**
5. 水素化ホウ素ナトリウム(NaBH₄)のヒドリドイオン(H⁻)が、炭素に結合した水銀(Hg-OAc)を攻撃し、OAc⁻が脱離してHg-H結合が形成されます。これにより、有機水銀ヒドリド中間体が生じます。
6. この有機水銀ヒドリド中のHg-H結合がホモリシス(均等開裂)を起こします。続いてC-Hg結合もホモリシスを起こし、金属水銀(Hg⁰)が押し出されて、炭素上に不対電子を持つ炭素ラジカルが生成します。
7. 生成した炭素ラジカルが、溶媒中の他の分子や残存する有機水銀ヒドリドから水素原子(H・)を引き抜き、新たな炭素-水素結合を形成します。
最終生成物は1-メチルシクロヘキサノールです。この反応は、アルケンのC=C二重結合に対して水(H₂O)がマルコフニコフ配向で付加した形で、転位反応を伴わずにアルコールを得られるのが特徴です。最終的なアルコールは、ラジカル中間体を経るため、通常はラセミ体として得られます。
📚 参考文献
[3] March, J. Advanced Organic Chemistry, 4th ed.; Wiley: New York, 1992, p. 806.