原典:米山正信『有機電子論解説 — 有機化学の基礎』第7章(p.94〜104)INDEX | ← 前へ 06_脂肪族の置換反応 | 次へ → 08_二重結合への付加反応
覚える前にこれだけ:SN 反応は「誰が攻撃し、どこに電子が流れるか」で種類が決まる。SN i は「内輪での攻撃」、SE は「攻守逆転」と覚えると系統的に整理できる。
06_脂肪族の置換反応では SN2(ワルデン反転)と SN1(ラセミ化)の2択だった。しかし実際の化学には 立体配置が保持される置換や、SN1 と SN2 が連続していて区別しにくい反応もある。
この章を読むと、SN 反応が「単純な 2 択」ではなく、連続したスペクトラムであることが分かる。それが有機合成の「立体制御」への第一歩になる。
d-(+)-リンゴ酸 [1] を SOCl₂ で処理すると、同じ立体配置の塩素化合物 [2] が得られる。

反応機構:
[1] HO–C*H–COOH(OHを持つ不斉炭素)
↓ SOCl₂ と反応
[3] –O–SOCl 中間体ができる
↓ Cl が「内側から」同じ面を攻撃
[5] Cl–C*H–COOH(立体配置は保持)
中間体 [3] では、硫黄に結合したままの Cl が δ⁻ を持ち、同じ不斉炭素の C 側(δ⁺)に近づいていく。反応は OH があった空間の内部 で完結するため、外から攻撃する SN2 とは違い「表から表へ」の置換になる。
💡 SN i のポイント「i」は internal(内部) の頭文字。外から陰イオンが飛び込む SN2 と異なり、既に結合した基が同じ面で置換するため 立体配置保持(retention) が生じる。SN2 と同じ「2分子反応」の親類だが、立体化学が正反対になる。
| 反応 | 立体化学 | 機構 |
|---|---|---|
| SN2 | ワルデン反転(100%反転) | 背面攻撃・協奏 |
| SN1 | ラセミ化 | カルボカチオン中間体・平面 |
| SN i | 保持(retention) | 内部求核・同面攻撃 |
次の反応では普通の SN2 なら [9] のみが生成するはずだが、実際は [8] が 98% を占める。

(C2H5S⁻ が攻撃する)
[基質] CH₂=CH–CH–CH₃
|
Cl(脱離基)
SN2 なら → C2H5S が Cl の背面 C₃ に結合 → [9]
実際は → C2H5S が C₁ に結合、Cl が C₃ から離れる → [8](98%)
これは E 効果(π 電子の共鳴移動) によってδ⁺ が系全体に広がり、C₁ にも δ⁺ が生まれるためだ:
C2H5S⁻ が C₁ の δ⁺ に近づく
↓ 同時に Cl が C₃ から離れる
→ 双方が異なる炭素に関わるが、2分子反応(速度論的確認あり)
共通イオン効果なし(SN1 でない)、速度論的に 2 分子 → SN2' と命名。
🔑 SN2' は08_二重結合への付加反応・π 電子の話につながるπ 電子系の「E 効果」(共鳴)を通じて電子が流れる現象は、08_二重結合への付加反応の付加反応でも重要になる。「どこにδ⁺ があるか」を電子の流れで追う練習になる。
Swain 教授は (C₆H₅)₃C–Cl + CH₃OH → の反応でメタノールが 2 分子も速度式に入る 3 次反応を見出した:
v = k [(C₆H₅)₃CCl][CH₃OH]²
「これは SN1 ではなくメタノール 2 分子が協奏的に関与する」と主張。その後、Ingold 派との論争が続いた。
真相は Winstein が示した段階的なイオン対モデル:
R–X → [R⁺X⁻] → [R⁺ | X⁻] → R⁺ + X⁻
内部イオン対 溶媒分離イオン対 自由イオン
(I) (II または III) (IV)

Swain の実験:(C₆H₅)₃CCl は事実上 SN1 反応だが、メタノールが push–pull で状態 I → II の移行を加速した(協奏的)というだけで、SN1 と矛盾しない。
💡 結論:SN1 と SN2 は「全く別の反応」ではなく、内部イオン対から自由イオンまでの連続したスペクトラム上にある。現在も厳密に区別することは難しい、というのが現状の認識。
求核試剤の種類も判断材料になる:
OH⁻ < CH₃COO⁻ < CF₃COO⁻ < PhSO₃⁻
─────────────────────────────────→ SN1になりやすい
脱離基として弱い求核剤の共役酸が強い(pKa が小さい)ほど、X⁻ の脱離(SN1 律速段階)を促進する。
SN2 側に引っ張るのは強い求核剤(高い pKa)、SN1 側に引っ張るのは脱離しやすい良好な脱離基と三級基質。
脂肪族置換のほとんどは求核剤(陰イオン)が攻撃する SN 反応だが、まれに 陽イオン(E⁺)が δ⁻ の原子を攻撃する場合がある。これを 求電子置換反応(electrophilic substitution, SE) という。
SN: Nu:⁻ + R–L → Nu–R + L⁻ (陰イオン攻撃→陰イオン脱離)
SE: E⁺ + R–L → E–R + L⁺ (陽イオン攻撃→陽イオン脱離)
SE1 と SE2 に分けられる:

塩基性条件(NH₃ 触媒)では:
尿素(H₂N–CO–NH₂) + H₂C=O
↓ OH⁻ が尿素の H⁺ を取る(SE1 の前段階)
中間体(カルボアニオン R⁻) + ⁺CH₂–OH
↓ E⁺ が C に結合
H₂N–CO–NH–CH₂OH
L = H⁺、E = ⁺CH₂=O(プロトン化ホルムアルデヒド)。SE1 反応。
酸性条件(HCl 触媒)では、まず +CH₂OH が生成し、SE2 反応となる([16] → [17] のステップ)。

SE2 で不斉中心が反応すると、立体配置が保持(retention)される ことが多い。
SN2 と SE2 の対比:
SN2: 陰イオン Nu: が空軌道のある C に近づく
→ 遷移状態 [19] は sp² 状の平面形
→ 背面から攻撃 → 反転
SE2: 陽イオン E⁺ が非共有電子対のある sp³ 軌道に近づく
→ 遷移状態 [17] は同じ sp³ 軌道に沿う
→ 同面から置換 → 保持

[SN2 の場合] [SE2 の場合]
Nu: E⁺
| |
← C –X C –L ←
(Nu は X の裏) (E は L と同じ側)
🔑 「攻撃する試剤の性格」が立体化学を決める
- SN2 → 陰イオン Nu: は 空の 軌道(LUMO)を探す → 反対側から
- SE2 → 陽イオン E⁺ は 電子のある 軌道(HOMO)を探す → 同じ側から
A. どちらも 2 分子が関与するが、攻撃の方向が違う。SN2 は求核剤が 外から背面攻撃(反転)。SN i は分子内の脱離基の一部が 同じ面の内側を攻撃(保持)。SOCl₂ のような「反応物が一度 O に結合してから Cl が折り返す」反応が SN i の典型例。
A. 基質に 共役二重結合 がある場合。π 電子の E 効果(共鳴)で、脱離基から離れた炭素にも δ⁺ が広がり、求核剤がそちらに結合する。「共役を通じた置換」と覚えると分かりやすい。
A. 主に溶媒の極性と求核剤の強さによる。極性溶媒ではイオンの解離が進みやすいため SN1 側(自由イオン)に寄り、非極性溶媒と強い求核剤があれば I の内部イオン対でも SN2 が起きる。
A. 一般の C–H 結合や C–C 結合は H⁺ や E⁺ を引き付けるほど δ⁻ が大きくない。ただし尿素の NH のように 孤立電子対を持つ N が隣にあると、C の HOMO エネルギーが上がり、E⁺ の攻撃を受けやすくなる。
A. E⁺ は「電子対を求める」。しかし C の非共有電子対(sp³ 軌道の電子)はすでに L とその反対側に分布している。L がいなくなった後、E⁺ は同じ方向の軌道の「電子の残り香」に結合するイメージ。結果として同じ面に E が入るため保持になる。
SN 反応の全体像
├─ SN2(反転): Nu: が背面攻撃・協奏
├─ SN1(ラセミ化): カルボカチオン中間体・平面
├─ SN i(保持): 内部求核・同面攻撃(SOCl₂ 型)
└─ SN2'(位置ずれ): 共役系を通じた遠隔置換
SN1 と SN2 の連続性(Winstein, 1956)
R–X → [R⁺X⁻] → [R⁺|X⁻] → R⁺ + X⁻
内部イオン対→溶媒分離イオン対→自由イオン
← SN2 が起こりやすい ─ SN1 が起こりやすい →
SE 反応(求電子置換)
├─ SE1: カルボアニオン中間体
├─ SE2: 協奏(保持)
└─ SN2 と逆: E⁺ は HOMO に近づく → 同面 → 保持
この章のキーワード:SN i / retention(保持) / SN2' / イオン対モデル / 内部イオン対 / 溶媒分離イオン対 / 自由イオン / SE 反応 / SE1 / SE2 / 求電子置換 / push–pull 機構 / 協奏反応
🎯 次のノートを読む前にSN2・SN1・SN i の「3 種の立体化学(反転/ラセミ化/保持)」の理由を、中間体の構造図を書きながら説明できるかチェックしよう。
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