原典:米山正信『有機電子論解説 — 有機化学の基礎』第6章(p.76〜93)INDEX | ← 前へ 05_酸と塩基 | 次へ → 07_SN反応とSE反応
覚える前にこれだけ:有機化学の「置換反応」は結局、δ⁺ の炭素に電子対を持った陰イオンが飛び込み、もといた陰イオンが出ていく だけ。SN1/SN2 の違いは「一気に行くか、順番に行くか」の違い。
05_酸と塩基(酸と塩基)で「プロトンを与える・奪う」能力を学んだ。置換反応はその延長で、プロトンの代わりに炭素原子が求核剤の標的になる反応だ。
置換とは何か、なぜ立体反転が起きるのか、なぜ基質の構造によって反応機構が変わるのかを理解しないと、08_二重結合への付加反応・09_脱離反応・さらに先の転位反応(13_脂肪族の転位反応)を読む準備が整わない。

メタン CH₄ から出発して、つぎつぎと別の化合物に変えていける:
1) CH₄ + Cl₂ → CH₃Cl + HCl (ラジカル反応・[[22_遊離基の反応]]で扱う)
2) CH₃Cl + NaOCOCH₃ → CH₃OCOCH₃ + NaCl
3) CH₃OCOCH₃ + OH⁻ → CH₃OH + CH₃COO⁻
4) CH₃OH + I⁻ → CH₃I + OH⁻
5) CH₃I + NH₂⁻ → CH₃NH₂ + I⁻
これらを見ると、分子の一部の基が別の基と 置き換わっている(substitute)だけ。これが置換反応(substitution)だ。
💡 重要な原則脂肪族置換では 陰イオンが攻撃し、陰イオンが出ていく。芳香族置換では逆に陽イオンが攻撃してくる(17_芳香族求電子置換反応)。この「非対称性」は、脂肪族の C–X 結合が δ⁺–δ⁻ に分極しているためだ。
2)を例に詳しく見ると、CH₃–Cl では C–Cl 間が分極し、C 側が δ⁺、Cl 側が δ⁻ になっている(03_多重結合と分極の I 効果の復習)。そこにアセタートアニオン(δ⁻)が δ⁺ の C に近づき、Cl⁻ が出ていく。
置換反応を記号 S で示す。求核的(nucleophilic)な陰イオンが攻撃するので SN 反応と呼ぶ。
CH₃–Cl + CH₃COO⁻
この反応の速度式を測ると:
v = k [CH₃Cl][CH₃COONa]
両方に一次 → 2分子反応(bimolecular) → SN2 と命名。
遷移状態を番号で追うと:
[求核剤] + [C–Cl] → 遷移状態 [‡] → [生成物] + Cl⁻
Nu: δ+ Nu---C---Cl

活性化エネルギー Ea を超えた分子だけが反応に進む(アレニウス式 k = A · e^{−Ea/RT})。
また Evans–Polanyi 則:ΔH が大きく負(発熱的)なほど Ea が小さい。生成物が安定なほど反応は速い。

SN2 の最大の特徴は、求核剤が 脱離基と完全に逆の方向(背面)から攻撃する ことだ。
Nu: Nu
| |
Nu:→ C–X → Nu---C---X → C ← X⁻
/|\ /|\
a b c a b c
(R配置) [遷移状態] (S配置)
中心炭素にある a, b, c, X の 4 基が「雨傘がひっくり返るように」逆転する。これを ワルデン反転(Walden inversion) という。1893年に発見された実験事実が、この遷移状態構造で見事に説明された。
🔑 ワルデン反転が09_脱離反応で効く脱離反応 E2 でも同様に、反応は anti 形(Hと脱離基が反対側)で進む。「背面攻撃」の考え方がそのまま使える。
分子軌道論的理解(図6-4, 6-5):
これらが重なりあうことで、エネルギーが 2E だけ低下し(2電子分)、反応が進む。

基質の構造(立体障害):
| 基質 | 比速度 | 理由 |
|---|---|---|
| CH₃Br | 大(基準) | 立体障害なし |
| CH₃CH₂Br | 中 | CH₃ が 1 個で立体障害↑ |
| (CH₃)₂CHBr | 小 | CH₃ が 2 個で障害大 |
| (CH₃)₃CBr | 極めて小 | CH₃ が 3 個で事実上不可 |
CH₃ 基は電子を押しやる(−I 効果)ため、C の δ⁺ を中和し、求核剤を引きつけにくくする。さらに立体的にも攻撃を阻む。
求核剤の強さ(表6-1):
| 求核剤 | CH₃Br との相対速度 | 共役酸の pKa |
|---|---|---|
| CH₃CH₂O⁻ | 16,000 | 16 |
| HO⁻ | 500 | 15.7 |
| CH₃COO⁻ | 11 | 4.8 |
| H₂O | 1(基準) | −1.7 |
| HS⁻, CN⁻ | 125,000 | — |
| I⁻ | 100,000 | — |
pKa が大きい(= 共役酸が弱い = H⁺ を強く抱える)ほど求核性が高い。H⁺ を放さない = δ⁺ のところに何でも強く結合する 傾向があるからだ。

ヨウ化イソプロピル + KOH の反応で速度式を調べると:
v = k [ヨウ化イソプロピル]
OH⁻ の濃度が入らない → 1分子反応(unimolecular) → SN1。
反応機構:
[6] (CH₃)₂CH–I →(遅い、律速)→ [7] (CH₃)₂CH⁺ + I⁻
↓(速い)
[8] (CH₃)₂CH–OH + H⁺
律速段階 = カルボカチオン生成ステップ。OH⁻ がどれだけいても速さには無関係。

カルボカチオン(旧称:カルボニウムイオン)は sp² の平面構造 を持ち、空の 2p 軌道が平面の上下に突き出る:
(空の 2p 軌道)
|
a ——— C⁺ ——— b
|
c
(平面、120° )
OH⁻ は平面の 上からも下からも 同確率で攻撃できる。不斉炭素なら (+)と(−) が等量生成 → ラセミ化。
| 項目 | SN2 | SN1 |
|---|---|---|
| 速度式 | v = k[基質][求核剤] | v = k[基質] |
| 律速段階 | 遷移状態1つ | カルボカチオン生成 |
| 中間体 | なし(遷移状態のみ) | カルボカチオン |
| 立体化学 | ワルデン反転 | ラセミ化 |
| 基質の好み | 一級アルキル・CH₃X | 三級アルキル |
| 求核剤の影響 | 大きい | 無関係 |

CH₃ 基の −I 効果(C への電子供与)は、C–I が切れて生じる カルボカチオンの正電荷を安定化し、その結果 I⁻ が離れやすくなる。さらに、生じたカルボカチオンは 超共役(hyperconjugation) によっても安定化される。
H₃C — CH₂⁺
[19] (一次カルボカチオン)
H₃C — CH — CH₃(+)
[20] (二次カルボカチオン)
CH₃ 基の sp³ C–H 結合の σ 電子が、隣の空の 2p 軌道と 位相を揃えて重なりあう。電子が C⁺ の 2p 軌道まで広がるため、正電荷が分散して安定化する。これが超共役だ。
安定性の順:
CH₃CH₂⁺ < (CH₃)₂CH⁺ < (CH₃)₃C⁺
一次 二次 三次
🔑 超共役は13_脂肪族の転位反応(転位反応)で再登場するカルボカチオンが転位するのも、より安定な(超共役の大きい)カルボカチオンに移行するためだ。
SN1 反応の律速段階は可逆:
R–Cl ⇌ R⁺ + Cl⁻
反応系に LiCl(よく解離する)を加えると Cl⁻ 濃度が増加し、平衡が左にシフト → R–Cl の解離が抑制される → 反応速度が低下。これが共通イオン効果(common-ion effect)。
共通イオン効果が観測されれば、その反応は SN1 だと確認できる。
SN1 で生成したカルボカチオンに隣接する基が電子を供給すると、中間体が安定化して反応が加速される(1954年 S. Winstein)。

芳香環が隣接する場合:C⁺ と苦フェニル基が共役してエネルギーが低下。
二重結合が隣接する場合(「p」上の酢酸中の加溶媒分解):反応速度定数が 約 0.1 兆倍も大きくなる。
これは、Y⁻ が脱離した後に残る 2p 軌道と隣の π 電子系が重なり、共役によるエネルギー安定化が非常に大きいためだ。
C=C — C⁺(空 2p) → C=C=C(共役、安定)

A. SN2 では求核剤が 必ず背面から攻撃するため、反応した分子は 全部 同じ方向に反転する。「反転した光学活性体 100%」が生成する。ラセミ化(50:50)とは全く別のこと。
A. カルボカチオンは sp² 平面構造で、上下どちら側も等価。OH⁻ は上からも下からも同じ確率で攻撃する。その結果 R 体と S 体が 50:50 できてラセミ化する。
A. ポイントは「CH₃ の −I 効果は作用が1つだけ=C に電子を押し込む」こと。それが SN2 と SN1 で逆に効くだけで、矛盾ではない。
SN2 は「δ⁺ の炭素」を、SN1 は「安定なカルボカチオン」を欲しがる。求めるものが逆だから、同じ電子供与が一方を遅く・他方を速くする。X⁻ が離れやすいのも「C–X がもともと強く分極しているから」ではなく、離れた先のカルボカチオンが安定だから(Hammond の仮説:遷移状態がカルボカチオンに似る)。
A. 似ているが違う概念。塩基性は H⁺ に対する電子供与能(熱力学的・pKa で測る)。求核性は C など他の原子への電子供与能・速度(反応速度論的)。I⁻ は pKa が低くて弱塩基だが、C 原子への求核性は非常に高い(分極率が大きいため)。
A. SN1 の証拠のひとつにはなる。SN1 の律速段階は陰イオン生成ステップだから、共通イオンを加えれば平衡が逆方向に動いて遅くなる。SN2 では律速段階に陰イオン脱離がないから、共通イオン効果は起きない(あるいは微小)。
A. π 共鳴は p 軌道どうしの重なり。超共役は sp³(σ)軌道と空の 2p 軌道の重なりで電子が非局在化する現象。弱いが、C–H 結合がたくさんあるほど累積効果が大きくなる。
脂肪族置換反応 SN
├─ SN2(2分子反応)
│ 速度式: v = k[基質][求核剤]
│ 遷移状態: Nu:---C---X (背面攻撃)
│ 立体化学: ワルデン反転(100%反転)
│ 好む基質: CH₃X、一級アルキル
│ 特徴: 立体障害↑ → 速度↓
│
├─ SN1(1分子反応)
│ 速度式: v = k[基質]
│ 中間体: カルボカチオン(sp²、平面)
│ 立体化学: ラセミ化
│ 好む基質: 三級アルキル
│ 特徴: CH₃↑ → カルボカチオン安定↑ → 速度↑
│
└─ 速度に効く因子
・求核剤の強さ(pKa との相関)
・共通イオン効果(SN1 の証拠)
・隣接基効果(共役安定化)
・超共役(カルボカチオンの安定化)
この章のキーワード:求核的置換(SN) / SN2 / SN1 / ワルデン反転 / ラセミ化 / カルボカチオン / 遷移状態 / 活性化エネルギー / Evans–Polanyi則 / 求核性 / 共通イオン効果 / 隣接基効果 / 超共役
🎯 次のノートを読む前にSN1/SN2 の速度式と立体化学を何も見ずに書けるかチェック。さらに「三級ハロゲン化物が SN1 で反応しやすい理由」を超共役を使って 3 行で説明してみよう。
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