試薬Ph₃P=CH₂(メチレントリフェニルホスホラン) (Wittig 試薬 = リンイリド。P⁺-C⁻ の双性イオン構造をもつ)
溶媒・条件Et₂O(ジエチルエーテル)、reflux(還流) (非プロトン性溶媒。イリドの安定性を保つ)
後処理特に記載なし
この反応で最初に注目すべきは、出発物質であるシクロヘキサノンが持つ「カルボニル基」(炭素と酸素が二重結合で結ばれた官能基)と、試薬であるPh₃P=CH₂が持つ「リンイリド」(リン原子に正電荷、隣接する炭素原子に負電荷を持つ化合物)の構造です。リンイリドは、特にその炭素に負電荷を持つ「カルバニオン」(負の電荷を持つ炭素原子)として機能します。
リンイリドのカルバニオンがカルボニル基の炭素を攻撃する理由は、電気的な分極にあります。カルボニル基の酸素は炭素よりも「電気陰性度」(原子が共有結合している電子対を引き寄せる強さの尺度)が高いため、結合の電子が酸素側に偏り、炭素は部分的に正の電荷(δ+)、酸素は部分的に負の電荷(δ-)を帯びて「分極」(共有結合における電子の偏りによって生じる部分的な電荷)しています。一方、リンイリドのカルバニオンは電子密度が非常に高いため、電子不足のカルボニル炭素(δ+)に対して「求核攻撃」(電子密度が高い原子が電子密度の低い原子に電子対を与えて結合を形成する反応)を仕掛けます。
[出典: 10章 p2]
この反応は複数の段階を経て進行しますが、最初の「律速段階」(反応機構において最も遅く、反応全体の速度を決定する段階)はリンイリドのカルバニオンがカルボニル炭素を求核攻撃する段階と考えられます。しかし、反応全体を不可逆的に駆動する最大の駆動力は、最終段階で形成されるリン-酸素二重結合の強さです。このリン-酸素結合は非常に強い結合(結合解離エネルギー(BDE)は約544 kJ/mol)であり、この形成による大きなエネルギー利得が反応を一方的に進行させる「鍵結合」となります。
最初の段階では、リンイリドのカルバニオンが持つ孤立電子対が、シクロヘキサノンのカルボニル炭素を攻撃し、新しい炭素-炭素結合を形成します。このとき、カルボニル基の炭素-酸素二重結合のπ電子対は酸素原子へ移動し、酸素に負電荷(O⁻)が生じます。この中間体はベタインと呼ばれます。
次に、ベタインの酸素アニオン(O⁻)が持つ孤立電子対が、分子内のリン陽イオン(P⁺)を攻撃し、酸素-リン結合を形成します。これにより、炭素-炭素-リン-酸素の4員環構造であるオキサホスフェタンが生成します。
最後の段階では、このオキサホスフェタンの4員環が協奏的に開裂します。環内の酸素-リン単結合の電子対はリンと酸素の間で二重結合を形成し、同時に環内の炭素-リン単結合の電子対はリン側へ移動して結合を切断します。また、環内の炭素-炭素単結合の電子対は炭素-炭素二重結合を形成し、もう一つの炭素-酸素単結合の電子対は切断されます。この過程を経て、アルケンとリン-酸素二重結合を持つ副生成物が同時に生成します。
最終的に、カルボニル基がメチレン基(=CH₂)に変換された「メチレンシクロヘキサン」というアルケンが主生成物として得られます。副生成物として、非常に安定な「トリフェニルホスフィンオキシド」が生成します。